◆はじめに◆

常日頃から小高たけおに温かいご支持・ご支援を賜り、心より御礼申し上げます。平成11年の統一地方選挙におきまして、栃木県出身でないため、ひとりの身内も同級生もいない中で(小学校の同級生でお嫁にきた人が一人見つかりました)、宇都宮市民の皆さまや多くの県民の皆さまの絶大なるご支援をいただき、栃木県議会へ送っていただきました。
私は、こうした多くのご支援をいただいた皆さまの熱い思いになんとしても応えなければならないという思いで、21世紀に夢と希望がもてる豊かな栃木県づくりやさまざまな相談や地域の課題、党や国への要望等皆様方と一緒になって一つ一つ全力でその実現めざして戦ってまいりました。


◆政治姿勢と決意◆

私は、昭和44年結党間もない公明党の衆議院議員の秘書として、24歳で政治の世界へ身を投じました。なぜ政治の世界へと思ったのかといいますと、もともと私は、高校は、埼玉の県立大宮工業高等学校の機械科を昭和38年に卒業し、与野市(現さいたま市)にあります日本信号与野工場の電子信号設計課に勤務し、信号機の基盤設計などの仕事をしておりました。
しかし、もう少し勉強し、しっかりした技術者になろうという思いで、翌年に日本大学の工学部を受験いたしました。しかしそのころ様々な方々と話し合い、本を読み自分の生き方について色々考えておりました。そうした思いの中で、社会を変革し民衆を救うことが出来るのは何か、困っている人を救うのは何か、それは政治を変える以外ないという気持があり、工学部の試験も筆記試験は受けましたが、面接試験は放棄してしまいました。そしてその次の年、昭和40年に日本大学の法学部に入学しました。会社では、技術屋がどうして法学部に行くのかという声も挙がっていたようです。当時の大学は、60年安保の時代で学園紛争が各地で起きておりました。日大も当時は中心的な拠点で、私が大学4年の時は、1〜2週間学校へ行った後は閉鎖となり、44年卒業は6月にずれ込んでしまいました。
 昭和44年卒業と同時に公明党に入り、衆議院議員の秘書となって政治の世界へ足を踏み入れました。「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでゆく」という公明党の立党精神を胸に、政治の光が当たらない方々に政治の光を、「政治家とは、民衆への奉仕者」であり、一人を大切にするヒューマニズムの政治、人間が主役の政治を実現することであるとの思いでありました。こうした考えが私の政治信条です。
県議会へ当選後の平成11年9月議会で初めて県政壇上で一般質問をさせていただきました。その時、自分が政治へ取り組む決意を表明させていただきました。政治家は、自分の私利私欲ではなく、県民に奉仕することが政治に携わるものの姿勢でなければならないと私は考え、そうした決意を表明いたしました。こうした政治の実現と本当に住んでよかった、子育てからお年寄りまで安心して生活が出来る栃木県づくりめざして全力で取り組んでいく決意です。
何とぞ皆さま方の暖かいご支援・ご鞭撻をよろしくお願いいたします。
 








Copyright (C) 2002 kodaka Corporation. All Rights Reserved